今回の庭ノートは、スイスのジュネーブからです。レマン湖の大噴水を見て、高校の国語の教科書に載っていた山崎正和氏の「水の東西」を思い出したというお話です。
ジュネーブはスイスの西部、レマン湖の南西岸にある都市で、フランス語圏に属し、国連ヨーロッパ本部、国際赤十字など、さまざまな国際機関が置かれている街です。
ジュネーブの有名なランドマークの一つに、大噴水(Jet d’Eau)があります。レマン湖からローヌ川へ流れ出る地点にあり、世界で最も大きい噴水の一つです。放水のスピードは時速200キロメートルで、高さ140メートルまで噴出されます。
こちらはジュネーブのイギリス公園(Jardin Anglais)から見た大噴水です。
噴水の右手に見えるヨットのサイズと比較すると、噴水がどれだけ大きいものかがわかると思います。ヨーロッパの乾燥した気候にとても合っていて、見ていて気持ちのよい風景です。日本で同じことをしてもこの清潔感は保てないのではないかと思います。
イギリス公園は、イギリス式造園法を用いて作られたため、そのように呼ばれているそうです。入り口にはジュネーブがスイス連邦に加盟したことを記念して建てられた、剣と盾を持った二人の女神のブロンズ像の国家記念碑(Monument National)があります。
その近くには有名な花時計がありますが、改装中で、残念ながら見ることができませんでした。
イギリス公園から歩いて10分ほどのところにサン・ピエール大聖堂(La cathédrale protestante Saint-Pierre de Genève)があります。宗教改革の指導者の一人、ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)が本拠とした教会として知られています。大聖堂の中では、カルヴァンが使用した椅子などを見ることができます。
5スイスフランを払うと、塔に上ることができます。狭く険しい道のりです。
サン・ピエール大聖堂の北塔から見た大噴水です。
ジュネーブの街並みの向こうにレマン湖と大噴水を望むことができ、とても美しい眺めです。
大噴水を見ていて、高校の国語の教科書に載っていた山崎正和氏の「水の東西」という評論を思い出しました。
流れをせき止め時を刻む「日本の鹿おどし」と、音を立てて空間に静止している「西洋の噴水」を比較し、流れる水と噴き上げる水、時間的な水と空間的な水、見えない水と目に見える水、として、日本人独特の感性について考察しているものです。
あまりに印象深かったので、今でもこの教科書を持っています。「水の東西」は、山崎正和(2007)『混沌からの表現』ちくま学芸文庫.に収められています。
以下、抜粋です。
西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めたということもあるだろう。ローマ以来の水道の技術が、噴水を発達させるのに有利であったということも考えられる。だが、人工的な滝を作った日本人が、噴水を作らなかった理由は、そういう外面的な事情ばかりではなかったように思われる。日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したりねじ曲げたり、粘土のように造形する対象ではなかったのであろう。
言うまでもなく、水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、おそらく日本人は西洋人と違った独特の好みをもっていたのである。「行雲流水」という仏教的な言葉があるが、そういう思想はむしろ思想以前の感性によって裏づけられていた。それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形なきものを恐れない心のあらわれではなかっただろうか。
見えない水と、目に見える水。
もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら、我々は水を実感するのにもはや水を見る必要さえないといえる。ただ断続する音の響きを聞いて、その間隙に流れるものを間接に心で味わえばよい。そう考えればあの「鹿おどし」は、日本人が水を鑑賞する行為の極致を表す仕掛けだといえるかもしれない。
ジュネーブの大噴水を見ていて、水をこのように扱ったり鑑賞したりするという発想自体が、そもそも自分にはないことに気づきました。どうやら私も日本人独特の感性を持っていて、「水の東西」にあるように、流れる水、時間的な水、目に見えない水に心を動かされるようです。
おすすめの本
「水の東西」が収められています。